左の画像は明太もちチーズもんじゃ。そしてそのお味はというと、水溶き小麦粉とソースと具が揃えばマズいわけがなくて美味しかったんだけど、具が多すぎて水溶き小麦粉はツナギの役割りを果たしているに過ぎないという本末転倒的もんじゃなのであった。要するに鉄板焼きに水溶き小麦粉がチョロッと入っているようなカンジね。これを「もんじゃ」かというとちょっと違う気がするが、全く別の食べ物と考えればかなりいける。このアンビバレンツな気持ち、おわかりいただけるだろうか。
最後に、こし餡と缶詰の杏(あんず)が入ったクレープなるものを注文したが、これも、生地は水溶き小麦粉だけで作られており、本物のクレープ生地では必須の卵もベーキングパウダーも一切使われていないという、いわゆる「クレープ」とは全くの別物であった。ところが、これを店のお姉さんが焼くと、不思議な美味を醸し出すから驚いてしまう。要するに月島もんじゃは、人工的かつ計画的に創造された食文化。街に例えれば、山を切り開いて造成された“ニュータウン”なのである。
そう考えると、店のお姉さんが、ちょっとぶっきらぼうだけど気のいい下町風のキャラクターをわざわざ演じている理由も理解できる。故郷を喪失した東京人や故郷を懐かしむ地方から来た人々にとって、月島もんじゃはレトロな下町を“疑似”体験できるテーマパークなのである。池袋のナムコナンジャタウンや新横浜ラーメン博物館と全く同じなわけね。
一部の友人たちは、ぼくが月島もんじゃを嫌っていると思っているが、疑似体験であると思って楽しんでいる分にはまったくかまわないわけで、ぼくが問題視しているのは、月島がもんじゃの原点である」と本当に思い込んでいる人がたくさんいることなのである。それなのに、なぜ「それは違うだろう」と言う人が出てこないのか、それも不思議なんだけどね。
少なくとも、ぼくが高校時代(1970年代中ごろ)に佃島や月島を訪れたときには、目につく場所にはもんじゃ屋など一軒もなかったことを書いておこう。いや、テレビなどで見ていると、戦後すぐのころからもんじゃ屋を経営していると言っている店もあったから、本当はあったのかもしれないけれど、その頃には、東京の城東エリアでは、どこの町にでもたくさんもんじゃ屋があったのであって、決して月島の専売特許ではなかったのである。
いっそのこと、町屋(ミステリクラブの先輩の実家があり、その先輩も幼少の頃にはかなりもんじゃを食べまくったという)とか、鐘ケ淵(大学時代にミステリクラブの有志でもんじゃツアーをおこない、いまだに本物のもんじゃの味が残っていたことに感動した)とか、柴又(ぼくが子供のころには自転車で行ける範囲に10件以上のもんじゃ屋があった)など、あらゆる元・もんじゃタウンだった町々が、「我が街こそもんじゃの元祖である」とか言って名乗りをあげたら面白いのにね(笑)。