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1978〜1981
学生時代っていうのは、もーホント怖いものナシです。自分で興味のおもむくままに好きなことをやってるうちに、それをそのまま仕事にし始めちゃって。だからプロ意識というのがまるでない(笑)。自分じゃいっぱしの学生ライターのつもりで書いてた文章も、恥かしくてとても見られたもんじゃありません。実を言うと今でも文章力なんてほとんど変わってないんですけどね。読み返して恥かしくなくなったコトだけが成長したと言うんでしょうかね。世間ではそれを厚顔無恥って言うらしいですケド…。
自主製作映画
- OFF THEATRE FILM & VIDEO FILMOGRAPHY-
前史
 1977年夏、CF作家でありアンダーグラウンドシネマの鬼才・大林宣彦が東宝で『HOUSE・ハウス』を撮った。
 そして翌年夏、今度は、当時大学生で自主映画作家だった大森一樹が、シナリオ『オレンジロード急行』で城戸賞を受賞。そのシナリオを大森一樹自身が監督し、松竹で映画化が決まった。閉鎖的だった日本映画界に、外部の、それも8mmと16mm映画しか撮ったことのない素人の学生が監督として殴り込むことになったのだ。
 この『オレンジロード急行』の予告編の中で、映画監督の山根成之は、興奮ぎみに上ずった声でこう叫んでいた。「久しぶりに、ほんとうに久しぶりに、日本映画界に若い才能が誕生しました!!」と。
 この2本の映画は、行き詰まりを見せていた日本映画界に新風を吹き込んだ。そしてそれらと呼応するように、大学生を中心として自主製作映画のムーブメントが起こりはじめたのだ。

 そうした熱い時代の風を感じたぼくは思った。「ぼくの進む道は映画監督しかない」と。ぼくはバイトをして10万円を貯め、8mmカメラを購入。ついに自主映画監督の仲間入りを果たしたのである!!(別に自称すればだれでもなれるんだけどね)。

後記
 やがてこうしたアマチュア映画作家の中から、次々と本物の才能が巣立っていった。日大芸術学部の長崎俊一石井聡互早大の山川直人、成蹊高校の手塚真(現・手塚眞)、小中和哉笹平剛(現・利重剛)などなど…。イベント情報誌「ぴあ」が彼らを全面的にバックアップしたことが、それに大きく貢献したことも忘れてはならない。

 でもってぼくがどうなったかというと、商業映画の監督にはならなかったが、「ぴあ」のオフシアター・フィルム・フェスティバルが縁で知り合った優秀な才能を持った人々との交流が、今の仕事にまでつながってるワケですから、人生わからないもんです。ホント。

cine magazine
「ふぁにぃかんぱにぃ」
 1980年春、当時所属していた大学のサークル・WMC(ワセダミステリクラブ)で、会報「PHOENIX」を印刷するのに使っていた古い謄写版印刷機が不用になった。それをぼくがもらいうけたのがきっかけで、一人で編集・制作を始めた映画ミニコミ誌。発行部数も徐々に増やしていったが、仕事が忙しくなり、4号で自然消滅。
 2号までは、編集・構成はもちろん、原紙切りから印刷・製本・裁断までを全て自分でやっていた。3号からは軽オフセットにしたので印刷は外部だが、それでも原稿は完全手書き&製本も自前。学生ってヒマなんですね〜。


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