2009年10月30日
トキワ荘のヒーローたち展取材など
今月後半のお仕事ダイジェストと、豊島区立郷土資料館で開催中の「トキワ荘のヒーローたち展」オープニングセレモニー出席レポートなど。
10/14-19
手塚治虫公式サイトの連載コラム『手塚マンガあの日あの時』第7回の原稿を執筆。すでにテーマは決まっていて、取材と資料集めも済んでいるのだが、調べれば調べるほど新事実が見つかり、書きたい要素が増えてしまって内容が絞りきれない。第1稿を読んでいただいた手塚プロ担当のI藤さんからも、やはりそこを鋭く指摘されてしまい「あ~、やっぱりねぇ......」とナットクし、思い切って大ナタをふるうことにした。そんなこんなで4000字のコラムがなかなか書き終わらない(汗)。
10/18
夕方、原稿執筆を中断して電車で新宿へ。17:00、西武新宿駅の改札で、学生時代の映画仲間のS木くんとK林くんのおふたりと待ち合わせ。ぼくが雑誌「G-Diary」で連載しているコラム『あの日の僕に帰りたい』で、次回、おふたりに関連したある映画作品をテーマとして取り上げる予定のため、取材の協力をお願いしていたのだ。
S木くんの案内で職安通りのバーミヤンへ行き、中華料理を食べながら話をうかがった。おふたりとも自主映画から映像関連のお仕事に進まれているだけあって、ぼくがお聞きしたかった内容以上に映画や映画を取り巻く状況を鋭く深く見ていて、興味深い話が山ほどうかがえた。おかげでいい記事が書けそうです。いや、これほど惜しみない協力をしてくれたのに中途半端な浅い記事を書いたらおいらの面目が立たねえ!
10/20-22
小学館の学習雑誌の原作のための資料を読む。
10/24
朝、電車で池袋へ。池袋西口の豊島区立郷土資料館でこの日から始まる企画展『トキワ荘のヒーローたち~マンガにかけた青春~』のオープニングセレモニーがあるのだ。
同資料館は、以前、手塚治虫公式サイトのコラムで取材していたので、それで案内状をいただき、出席の返事を出していた。
10:00、会場となっている資料館の会議室に到着し、受け付けで名前を告げると、胸に付ける大きな花飾りをもらった。大げさだなぁ、みんなこれを付けるのかなぁと思いつつ会場へ入ると、別の係員によって「トキワ荘関係者席」という紙が貼ってある席に案内された。関係者じゃないんだけど、いいのかな、と思いつつ座っていると、列席者が続々と入ってくるが胸に花飾りを付けている人はほとんどいない。
しかもみんなビシッとしたスーツにネクタイの人ばかりで、半袖のポロシャツみたいな軽装なのはぼくだけだ。うわあああ、だんだんいたたまれなくなってくる。しかも「トキワ荘関係者席」に座っているから、誰もが「このラフな格好の男は誰だろう?」という顔で見ていく。
やがてセレモニーが始まった。「トキワ荘関係者席」に座っている人が次々と挨拶に立つ。なんとそこに座っているのは、元トキワ荘に住まわれていたマンガ家の大先生や、そのご遺族、プロダクションの方々ばかりだったのだ。「うわ~、やっぱりぼくの席はココじゃないよぉ~!」と思った時にはもう完全に手遅れだった。多くの人の「このラフな格好の男は誰だろう?」という視線に耐えつつ最後まで小さくなりながらその場に座っていたぼくなのだった。
30~40分ほどの針のむしろのセレモニーの後、展示会場へ移動。ようやく開放された。ホッ。展示会場は狭かったが、なかなか貴重な資料や写真も多く、見ごたえのあるものだった。上の写真は、会場でいただいた図録とストラップ、ポストカード。図録は64ページもある立派なもの。図録は値段を確認するのを忘れたが、会場で販売している。ストラップとポストカードは、後述するトキワ荘エリアの商店街が同展と合同で開催しているスタンプラリーなどの記念品だと思う。
参考リンク:
豊島区ホームページ
2009年度企画展 トキワ荘のヒーローたち マンガにかけた青春
※新しいウィンドウが1枚だけ開きます。
展示を見学した後は、トキワ荘があった椎名町(現・南長崎)の第二会場へ移動する。セレモニー出席者には豊島区でマイクロバスが用意されていたが、ぼくは藤子プロのI藤社長から「一緒に乗っていく?」と声をかけていただき社長の車に便乗させていただいた。
南長崎ではトキワ荘を出た赤塚不二夫が仕事場として借りた紫雲荘というアパートの内部の見学もさせていただいた。トキワ荘はすでに取り壊されてないが、この紫雲荘は当時のままに残っており、大家さんの好意で、かつて赤塚不二夫が暮らした部屋を、当時のままに再現し、期間限定で公開してくれているのだという。
会期中は一般の人も往復ハガキで事前申し込みをすれば見られるとのことなので、これはぜひ見る価値があります。当時のマンガ家の暮らした生活の一端がうかがえます。詳細は下記のリンクを参照してください。
参考リンク:
豊島区ホームページ
企画展「トキワ荘のヒーローたち」関連イベント
※新しいウィンドウが1枚だけ開きます。
10/26
台風が接近し、大荒れの天気の中、柴又の隣町の金町に新しくできた葛飾中央図書館へ車で出かける。小学館の学習図鑑の仕事の資料探し。2時間ほど探して期待以上にいい資料が見つかった。が、本当はすでにラフ(構成案)を仕上げていなければいけない時期なのだ。小学館クリエイティブの編集担当T森さんからはていねいな口調でじんわりとプレッシャーをかけるメールが来ていて、冷や汗が背中を伝うのだ。
10/27-28
大急ぎで資料を読み込み、大まかなラフを作成する。
10/27
手塚治虫公式サイトのコラム『手塚マンガあの日あの時』第7回が公開になった。昭和30年代後半、東京オリンピック開催への期待がふくらみ東京が開発ラッシュに沸いていたころ、手塚治虫はもっと先の未来を見すえ、アトムに託して子どもたちに大いなるメッセージを伝えていた。下の画像をクリックするとコラムページが開きます(※新しいウィンドウが1枚だけ開きます)。
10/29
電車で神保町へ。ちょうど交差点では神田古本祭りの最中だったが、脇目もふらずに小学館クリエイティブの編集部へ行き、T森さんと小学館の学習図鑑の打ち合わせ。おおよその段取りが固まった。さっそく本ラフ作成に入らねば!
投稿者 黒沢哲哉 : 23:41 | コメント (2) | トラックバック
2009年10月25日
自衛隊観艦式を見学
10/23
数日前、友人でイラストレーターのBさんから電話があり「23日に自衛隊の観艦式に行く予定だったんですが、急きょ行けなくなっちゃったので、黒沢さん代わりに行きませんか?」と言うのだ。
うああ~! それはぜひ行きたい!! しかし仕事も押してるしなぁ~、と迷ったのはほんの数秒で「ぜひ行かせてください!」と返事をしてしまった。
雑誌『コンバットコミック』で編集の仕事をしていた10数年前には、基地祭に行く機会とか、航空自衛隊の取材などは何度かあったのだが、なぜか海上自衛隊には縁がなく、観艦式にも行ったことがなかった。このチケットを一般の申し込みで入手しようとしたらそれはもう大変な競争率らしい。仕事で取材の機会がないとなると、その競争率を勝ち抜かなければならないのだ。
Bさんから電話があった翌日、さっそく我が家にチケットが届いた。見ると、出発は木更津港で、受付は午前6時半(!)。電車の時刻表を調べると、うちを始発で出ても間に合わない。そこで、前日に車で行って車中泊をすることにした。
そして22日の出発当日になって、Bさんからメールが。なんと、Bさんも仕事の都合がついて行けることになったとか。チケットは2枚あるそうなので、ぼくもこのまま行って大丈夫だという。Bさんは過去にも何度か観艦式を仕事で取材したり、個人で申し込んで見学したりしている常連なので、来られることになったのはひじょうに心強い。ということで、当日、現地で合流することになった。
深夜12時過ぎ、自宅から下道でおよそ2時間で木更津駅に到着。事前にネットで調べておいた駅近くのコインパーキングに車を止めて就寝。しかしこんなに早く寝ることなんてめったにないので、なかなか眠れず、ようやく3時近くなって寝ることができた。
5時起床。6時、木更津駅近くのビジネスホテルに泊まったというBさんを駅前でピックアップして、さっそく港へ向かう。すでに多くの来場者が来ていたが、みんな早朝からテンション高っ! ぼくはまだ半分眠ってます。ちなみに、ぼくとBさんが乗るのは、上の写真でぼくの後ろに写っている練習艦あすかではなく、あぶくまという中型の護衛艦でした。
ちなみに、観艦式は合計3日の日程で行なわれる。21日が予行1、23日が予行2、そして25日が本番である。
受け付けで空港のような入念な持ち物チェックと、季節がらインフルエンザ対策のために乗客全員がアルコールで手を消毒してからの乗艦となる。パンフレットと一緒にエチケット袋をもらった。寝不足で船に揺られたら、もしかしてお世話になるかも......と思ったらぜんぜん大丈夫でした。よかった。
午前8時出航。木更津港を出たあぶくまとあすかは、横須賀港を出航した別の艦と合流。あぶくまは、観閲部隊の随伴艦として、いなづま、くらま、こんごうと合流する。あすかは観閲付属部隊に合流。
午後12時、出航から4時間後、相模湾沖で観閲開始。西に向かって進む観閲部隊に対して、向い側から受閲部隊が隊列を組んでやってきてすれ違う。
上の写真の右端、ぼくらの乗るあぶくまの前方に半分だけ見えているのが、日本で初めて就航したイージス艦こんごうである。そして反対側から対向してやってきた受閲部隊の先頭の艦がイージス艦(ミサイル護衛艦)あしがらだ。
日本初のイージス艦こんごうが就役したのが、ちょうどぼくが『コンバットコミック』で仕事をしていた1993年で、当時、最新鋭の護衛艦がついに日本にも就航した! ということでかなり話題になり、誌面にも盛んに登場させたのだが......。それから10数年、いつの間にか日本は現在イージス艦を6隻も持っていたなんて聞いてないぞ!
そしてそのあしがらの4隻後ろに見える空母のようなのが、ヘリコプター母艦ひゅうがである。
ちなみに艦の上はこんな具合に人でごった返している。曇り時々晴れといった天候で、日中は暑いくらいだったが、夕方、帰港するころになると風も強まり、借りた毛布にくるまって震えてました。
艦内や艦橋などもかなり自由に歩き回って見学したり写真を撮ったりすることができる。若い自衛官が随所に立っていて、若干緊張した様子で朴訥に案内してくれたり説明してくれたりするのが好もしい(笑)。関西弁の自衛官が多いなぁと思ったら、あぶくまは舞鶴地方隊に所属しており、普段は日本海側を警備しているとのことだった。
護衛艦さわかぜの祝砲発射シーン。
観閲部隊と受閲部隊がすれ違うと、双方が180度ターンをしてもう一度すれ違い、今度は訓練展示が始まる。訓練展示とは、受閲部隊の艦艇や航空機が、実際に爆弾を投下したりロケット弾を発射したりするもの。こちらは護衛艦ゆうばりが発射した対潜ロケット弾の着弾シーン。爆発音が腹にズシンと響く。
火薬の煙の臭いがこちらまで漂ってくるが、大砲の火薬とロケット弾の火薬ではそれぞれ煙の色も臭いも違う。
潜水艦そうりゅうの潜航・浮上。慣れた人はあらかじめ浮上するポイントにカメラを向けて待ちかまえているのだろうが、初めてだと、一度潜った潜水艦がどこから顔を出すのかわからず、なかなか決定的瞬間をとらえるのが難しい。
P-3C哨戒機のIRフレアー発射。IRフレアーとは、赤外線追尾式ミサイルに狙われた際に、それをかわすためにこうして熱源を放射するシステムのことだ。
ということですべてのプログラムが終了したのが午後2時過ぎ。それからまた4時間かけて木更津港に帰港したのが午後6時30分だった。この後、仕事場へ戻らねばならなくなったというBさんを木更津駅まで送り、また下道を走って帰宅。疲れたけど1日たっぷり楽しめました。Bさんありがとう。顔が日焼けして痛いっス。
投稿者 黒沢哲哉 : 23:54 | コメント (11) | トラックバック
2009年10月17日
AutoExeスポーツスタビライザー(リヤ用)
ず~~~っと前から欲しかったボンゴフレンディのあるパーツをようやく中古で入手した。
そのパーツとは、以前、AutoExeから発売されていたスポーツスタビライザー。すでに廃番となって久しく、ネットオークションにもほとんど出品されない超レア・アイテムのため、ずっと探していたのだ。
スタビライザーとは、左右両輪のサスペンション部分を連結する鋼鉄製のパイプで、これがねじれることにより、車体のクッション性は損なわずにロール傾斜だけを抑制するというパーツである。仕組みは単純だが効果は抜群で、乗り心地を犠牲にすることなくコーナリング中の車体の安定感だけが増すという優れモノのアイテムなのである。
もともとスタビライザーは、標準で装備されている車も多く、ボンゴフレンディも前輪と後輪にそれぞれスタビライザーが付いている。だがそのノーマルスタビライザーを強化スタビライザーに交換することで、コーナリング性能をさらに向上させることができるのだ。
ということで入手したのがこれ↑↑↑。AutoExeスポーツスタビライザー・ボンゴフレンディリヤ用MSG7650。実はフロント用も同時に入手したんだけど、本来、フロント用には専用ブッシュが付属しているのだ。ところが入手した中古品にはブッシュが付属していなかった。そこでAutoExeに問い合わせたのだが、残念ながらすでに在庫切れとのこと。ガーン!! 仕方がないので、こちらはノーマルのブッシュを加工して、後日、取り付けることにした。
ディーラーに持ち込んで、とりあえずリヤスタビライザーのみ取り付けてもらった。純正品を流用するスタビリンク、ブッシュ、ブラケットはそれぞれディーラーで取り寄せてもらって新品に交換した。価格表は以下。
作業名/部品名 | 部品代 | 技術料 |
---|---|---|
Rスタビライザ・バー取替 | 9,450 | |
ブッシュ×2 | 566 | |
ブラケット×2 | 734 | |
スタビリンク×2 | 3,780 | |
ナット×4 | 504 | |
合計 | 15,034円 |
さっそく千葉県の手賀沼までドライブし、走行性能をテストする。仕事も押してるんだけど、待望のパーツを付けたんだから、試走しないわけにはいかないでしょう(笑)。この日は連休で、手賀沼周辺には行楽の車が多く、スイスイ飛ばすというわけにはいかなかったが、軽いワインディングロードもあって、スタビライザーの走行テストにはもってこいのコースである。
ぼくが免許を取ったばかりの1976~77年ごろは、このあたりはほとんどが未舗装の道で、日中でも人も車もほとんど通ることはなく、ラリーの練習と称して友だちと中古車で砂煙をあげながら走り回っていたんですけどね、今では完全に舗装されてしまい、人家も車も多くてあのころのようには走れません。
さて肝心のスタビだが、果たしてその効果は期待以上のものがあった。コーナリングでステアリングを切っても車体が外に逃げないので、ハンドリングがクイックになり、コーナリング中に必要以上にハンドルを切り増す必要がなくなった。高速コーナーだけでなく低速コーナーでも効果があり、クリッピングを抜けてからすぐにアクセルを開けても車体がアウト→インと振られないから、アクセルワークだけでスムースにコーナーを抜けられる。そして何よりも車体が左右に揺れないのが快適。これならコーナーが連続する山道で同乗者が酔わなくなる効果も大いに期待できる。
スポーツ走行とは縁遠いミニバンに強化スタビライザーなんて、と思う人も多いかも知れないが、むしろ重心の高いミニバンだからこそ強化スタビライザーの効果があるという印象だった。後日、フロントも装着したらまたレポートします。
投稿者 黒沢哲哉 : 20:08 | コメント (0) | トラックバック
映画『ATOM』を観る
今月前半の仕事のダイジェストと試写会鑑賞など。
10/5
夕方、電車で新宿へ。今月10日から公開される、フルCGアニメーション映画『ATOM』のワールドプレミア試写会を観る。
上映前の舞台挨拶にはプロデューサー、監督、日本語吹き替え版でアトムの声を演じた上戸彩、テンマ博士の声を演じた役所広司、そして手塚眞氏などが出席。さらにシークレットゲストとしてホンダの二足歩行ロボット・アシモもステージに上がり愛嬌を振りまいていた。
そして肝心の映画は......、まず絵柄だが、当初、やはりアトムの顔が面長なのが気になったが、これはすぐに見慣れた。CGも過剰な立体感や質感の表現を抑えてセル的な印象を持たせていたところが良かったようだ。ということで、ぼくの頭もオープニングから3分の1ほど過ぎたころには、すっかりこのキャラクターを鉄腕アトムと認識していたようである。
アトムが初めて足からジェットを噴射し、自分の能力に驚きながらも、だんだんと飛び方をマスターしていくあたりの描写などは芸が細かくて実に楽しい。
そして最も面白かったシーンは、アトムが闘技場でロボットたちと戦う場面だった。こんなシーンは昔の白黒アニメ版『鉄腕アトム』にもよくあった場面で、ロボットたちのデザインがレトロ調なこともあり実に懐かしく感じた。出来れば、昔のアニメのあの電子音による効果音も再現して欲しかったところだけど、まあ昔のアニメの視聴者だけが観客じゃないので、それは仕方ないですね。
ストーリーは、初期の脚本ではかなりシンプルなものだったらしいが、手塚プロから、ストーリーに深みを持たせたいというリクエストを入れたらしく、努力の跡は見てとれた。ただ、オリジナルキャラクターとして登場する少年少女たちのグループの結末などは、いかにもアメリカ映画的に強引なハッピーエンドに持っていっているあたりが気になった。ストーリーや演出の工夫でもっと深みを出せたのではないかと思うとちょっと惜しかった気がする。
オリジナルの鉄腕アトムファンにも楽しめる作品だと思うので、機会があればぜひご覧になってください。
10/06
14:00、電車で神保町へ。喫茶店古瀬戸で「別冊漫画ゴラク」編集のT橋さんと『龍のおんな』第15話プロット打ち合わせ。今回分からコミックス3巻目の部分に入り新展開となるため、全体の流れなどを含めて入念に打ち合わせる。
16:00、徒歩で小学館へ向かい、児童・学習編集局のF田さんとマンガ原作の企画打ち合わせ。
10/07-09
昨日見た試写会を踏まえて手塚治虫公式サイトの連載コラム『手塚マンガあの日あの時』第6回の原稿を執筆。今回は前後編の2回に分けて『鉄腕アトム』を取り上げた。
10/09、公開日直前にようやく前編の決定稿が完成。内容は、原作の『アトム』が初めて描かれた昭和26年当時を振り返るもの。手塚治虫公式サイトで無料公開中なのでぜひごらんください。
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