あとがき
人間は火を操り道具を使いこなしたとき生物界の頂点に立った。それでは人類の次に来る新たな人類は、何を得たときに人類を超える存在となるのだろうか──。
そんな物語を描こうと思ったとき、その舞台として頭に浮かんだのは香港の九龍城砦だった。かつて「魔窟」「東洋のカスバ」と呼ばれた巨大な高層スラム・九龍城砦。まさに砦か要塞のように見えるその外観は、実際には500棟もの違法建築のビルが寄り集まってできた人工の珊瑚礁のようなもので、最盛期にはそこに4万人もの人々が生活していたという。
1986年夏、ぼくと友人のふたりは、その九龍城砦に沿った舗道を歩いていた。
舗道に沿って無免許歯科医の看板が林立し、頭上にはいまにも崩れ落ちそうなひび割れた外壁がせりだしている。城砦の奥へ向かって所々に開いたトンネルのような路地の先は、真昼にもかかわらず闇に閉ざされて数メートル先も見通せない。ところがその奥からはまるでジャングルのような生命感に満ちた湿った気配≠ェむんむんと吐きだされている。それはまるで城砦そのものが生きて呼吸をしているかのようであった。
しばらく歩いていると、ぼくらはとつぜん数人の私服警官に呼び止められ、執拗な所持品検査を受けた。全員が少年のように幼い顔をした連中で、IDカードを見せられなければ警察官とは分からなかっただろう。それだけに彼らに取り囲まれたときには、一瞬、最悪の事態までもがぼくの脳裏をかけめぐった。この頃には九龍城砦も警察官の立ち入り巡回が行われるようになっていて、直ちに危険というほどではなかったというが、当時の観光地図では依然としてここだけがぽっかりと空白になっていたし、事前情報も案内人もなかったぼくらは、このハプニングに恐れをなしてそれ以上の探索を断念した。
秩序を持たない個が互いに寄り集まり、その生活空間を複雑に交差させながら生きている九龍城砦のような場所。その混沌の中から生みだされるものはいったい何なのだろうか。偽ブランド品? 麻薬? 密造拳銃?……いや、もっと違う何かが生みだされることだってあるのではないだろうか。そう、例えばブリル・ストーンのようなものさえも──。そんな想いから『鋼鉄都市アガルタ』は誕生した。
その後、九龍城砦は1993年に取り壊され今は公園となっている。あのアガルタの跡地もやはり公園になるのだろうか。そしてジャンクのその後は……それはまたの機会に──。
末筆ながら、折々に適切なアドバイスをしてくださった新企画社編集長の渡辺哲也氏、デスクの川原一夫氏、そしてぼくの初めての小説に貴重な助言をくださった作家の蕪木統文氏に、この場を借りてお礼を申し上げます。