プロローグ

 ドクン。
 男の体を激痛が走った。
「またあの痛みだ」
 闇の中で男は思った。
 ドクン──ドクン──。右腕から出た小さな痛みは心臓に達し、血液とともに全身を駆けめぐる。
 男はベッドの上で胎児のように丸くなり、両足の間に腕をはさんで必死に痛みを抑えこもうとした。
 一糸まとわぬ男の体は、均整のとれた見事な骨格を持ち、盛り上がった筋肉がその骨格をしっかりと包みこんでいる。
 だが今はその自慢の体躯も、体中の毛穴から噴き出す汗にまみれ、みじめに震えていた。
 男の目の前でストロボライトが激しく点滅し、耳元でジェットエンジンの轟音が響く。
 男は呻いた。これらのどこまでが夢でどこからが現実なのか、それは彼自身にもわからなかった。ただこの耐えがたい痛みが、彼の右腕の古傷からきていることだけは確かだった。
 男の右腕には、ちょうど手首の上あたりに、縦に走る十五センチほどの傷跡があった。その醜くひきつれた傷跡は、素人の手で不器用に縫い合わせられたことは誰の目にも明らかだ。
 男はこの傷跡を誰にも触れさせたことがない。いやそれどころか、ほとんど人に見せたこともなかった。
 だが、もし誰かがその傷に触れることができたら、傷の中央に小さな突起があることに気付いただろう。まるで傷口に小石を入れたまま縫い合わせたような硬い小さな突起に──。
 ドクンッ──。
 男の体をひときわ激しい痛みが襲った。
「うっ」
 男の右手がサイドボードに置かれていた電話機に伸びた。それは男の意志だったのか、それとも、少しでも痛みを体から遠ざけたいという本能が、勝手に右手を動かしたのだろうか。
 いずれにしても、男の右手は電話機に触れることはできなかった。
 電話機が激しく発熱をはじめたのだ。
 プラスチック製の電話機は、小さな泡をほとばしらせながら沸騰し、みるみる形を崩しはじめた。異臭を放ちながら溶岩のように流れ落ちるプラスチック。その濁った溶岩流れの下から、緑色の基盤や色とりどりの電子部品が顔をのぞかせている。
 暗闇のはずの室内で、溶ける電話機だけが青白く光っていた。
 いや、光っているのは電話機ではない。腕だ。光っているのは男の右腕なのだ。
 ひきつれた傷跡の皮膚をその下から押し上げている小さな突起。光はその突起から発せられていた。
 そして──電話機がもはや電話機とは呼べない形になったころ、痛みはまるで汐が引くように遠のいていった。腕の光は消え、室内がまたもとの暗闇に包まれる。
 男はそのまま深い眠りに落ちた──。


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