『殺しの烙印』 (1967年日活作品)

監督/鈴木清順
脚本/具流八郎
主演/宍戸錠、小川万里子、真理アンヌ、玉川伊佐男、南原宏治
白黒 シネマスコープサイズ 91分
「訳の分からない映画を撮る奴はいらない」と日活社長を激怒させ、この映画を最後に清順監督が日活を去ることになったいわく付きの作品だ。
 確かに清順監督の日活後期の作品は、当時の日活映画の流れの中では異色な作品ばかりで、この映画も、普通のアクションを期待して見たら誰でも目が点になったに違いない。
 私見だけど、清順スタイルが日活プログラムピクチャーの中で許されたのは『けんかえれじい』(1966)や『東京流れ者』(1966)がギリギリの線、『春婦伝』(1965)などはもうすでにかなりヤバかったのではないだろうか。
 しかしぼくが清順映画を集中的に見たのは大学時代、つまりゴダール映画などと同時期に見てるわけで、『殺しの烙印』を初めて見たときには、そのエスプリに、もー震えるほど感激しましたね。
 それと、これはワセダミステリクラブの後輩から指摘されて初めて気付いたんだけど、この映画のプロットは、何とギャビン・ライアルの傑作冒険小説『深夜プラス1』にそっくりなのである。当時の日活映画は海外の名作映画から着想した作品が多いことは有名だけど、『殺しの烙印』と『深夜プラス1』の類似性を指摘した人はいなかったし、ぼくもまったく気付いていなかった。小説の方も同じ頃に読んでたのになぁ…。
 主人公がある人物を車で護送する仕事を依頼されるところから始まり、ガンマンNo.3の座にいる主人公が、姿を見せないガンマンNo.1と戦うところまで、確かに物語の骨格はそっくり。そして主人公の愛銃が、大型のモーゼル自動拳銃という個性的な銃であることも同じなのである。
 元ネタを見抜けなかった言い訳をすると、映画の方には、そうしたプロットを全部ひっくり返してしまうほど強烈なインパクトを持ったエピソードが山ほど詰め込まれていたのだ。主人公の殺し屋(宍戸)が米の炊ける匂いが好きという変わった性癖を持っていることに始まり、その他にも、死の妄想にとり憑かれ、蝶の標本と鳥の死骸に埋もれて生きている謎の女性(真理)などが登場しては、物語をあらぬ方向へと曲げていくのである。
 今回、ひさびさに再見してみた感想は、全体を構成する倦怠感と死を背負った殺し屋のやるせなさが何とも心地好く、決していたずらに理解不能な映像を並べているわけではないことを再確認した。また、そのシュールさに慣れた目で落ち着いて見ると、水道管やアドバルーンを使った奇想天外な“殺しのテクニック”や、小川万里子との、ベッドを一度も使わない奇妙なセックスシーンの連続などのお遊びもゆっくり楽しめるようになってくる。やはりこの映画は最低3回は見ないとだめなのかも。
 脚本の具流八郎というのは清順を含めた8人の合作ペンネームで、その中には清順の助監督を務め、『裏切りの季節』(1966)で監督デビューした大和屋竺やまとやあつしも入っており、『殺しの烙印』のエスプリは、大和屋が監督した『荒野のダッチワイフ』(1967)に受け継がれる。

(1999/06/11)


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